メモ(『多和圭三展』より)

「私は創造といえるような新しいものを作り出すことは何もしていません。何もしていない状態に戻していると言ったほうが当たっている。最近までの仕事は、自分の中に入ってしまっていることを、どんどん削り落としていくという仕方をしてきた。そして、ものも自分も「ある」というところに行ければと思っています。」


ーー生み出されたものを作品という分類に当てはめないとすれば、即物的には、「叩かれた末に鉄でなくなったもの」でしょうか。
「鉄でなくなったものではなくて、「ものになった鉄」かもしれない。いや、「ものになったもの」。鉄は鉄なんですけど、存在自体ができれば一番いいなと思ってるんです。それが何を表すのか、今はわからないのですが。こっちも存在で。見る側とか、見られる側とかではなくて、同じ立場という関係ができればいい。」


「制作の現場で変な感覚が、ある時から出てきた。ものがものとしての存在の精度が上がっていくことで、人間を寄せつけなくなっていった。完全に作者であるこちら側が排除されました。・・・「自分が作ってるんだ」という感覚があまりなくなっている。とにかく、奉仕というか、「できることは全部やろう」というだけです。」 (『鉄を叩く――多和圭三展』カタログより)