メモ(無意味)

・・・禅はその活動のあらゆる場において、無意味性という現象を重視する。・・・有名な禅者たちの特徴ある行動は、常識的観点から見る限り、すべて、ほとんど例外なしに、無意味である。・・・問答形式では禅独特の無意味性が更に一段とむき出しになる。・・・ある時、ある僧が趙州禅師に問うた「如何なるか是れ祖師西来の意」。趙州答えて曰く「庭前の柏樹子!」・・・全くわけがわからない。・・・禅における言葉のやりとりは、大抵の場合、一瞬にして終了してしまう。・・・しかもなお、禅者は好んで問答する。


・・・禅では「言無展事」(洞山守初)という。言語は存在をそのままに、あますところなく提示することができぬ、というのである。ここには言語にたいする根深い不信感がある。


・・・言語はもともと無限定的な存在を様々に限定してものを作り出し、ものを固定化する。・・・だが、禅はものの固定化をなによりも忌み嫌う。一切のものを本来無自性と信じ、かつそう見るからである。


・・・意味作用が働いている限り・・・個々の語は現実のある一断片を切り出してこれを固定的に結晶させざるを得ない。そのような言語の本来的機能を活かしながら、しかも意味の結晶体を溶解させようと、禅はする。・・・この歪曲が普通の人の目には「無意味」と見える。 (井筒俊彦『意識と本質』「禅における言語的意味の問題」より)