メモ(「現代芸術と大衆の立場」より)

・・・それらが一体芸術であるのか・・・私にはわからない。・・・この場合、過去の私の絵画についての経験は、それがどんなものであれ、役に立つと同様に、邪魔になりそうに思われる。私は、・・・その美的価値を云々しなければならない。ところが、私がかつて見たどんなものも、その方法を教えることはできない。私は、このものとひとり対峙している。そして、役に立つような基準もないので、それを評価するのは、私次第である。この絵に与える価値が、私自身の勇気をためすことになる。ここにおいて私は、自分が、ひとつの新奇な体験との衝突に耐える覚悟があるかどうか、見きわめることができるのだ。


・・・その作品によって、私は、絵画というものをめぐって、私自身をめぐって、どっちつかずの不安な状態にとり残される。・・・私は、新しい芸術作品の前に立たされたとき、なにがすぐれており、なにが後々まで残るか、習慣的にわかる人びとをほとんど信用しない。・・・


・・・作品は、その攻撃的な不条理さでもってわれわれを悩ます。・・・それは、ひとつの決断を迫り、人はそれによって、自分の持っている特性のなにかを発見するのだ。・・・その作品は、恣意的で、残忍で、不合理で、未来の報いについてはなんの約束もしないで信仰を求めるもののようだ。換言すれば、成功の見込みのない危険として自己提示するのが、独創的な現代芸術の性質なのである。われわれ大衆は、芸術家も含めて、こういう状態にいることを誇りとすべきである。なぜかといえば、われわれにとって、これほど人生に忠実なことはないだろうと思われるからである。・・・(レオ・スタインバーグ「現代芸術と大衆の立場」村木明訳より)