「志向的とは、可能世界の変質を伴うがゆえに、起こってしまったことが、誤作動ではなく、新たな発想と呼ばれ得る方向性のことである。常に新たな正解を創り出す方向性、それが志向性である。例えば、生物なら、生きるための手段として解を探索しつづけ、自らを変えてでも生きる手段を見出していく。自らを変えることで、解かれるべき問題は変質し、解はその都度劇的に変更される。以前には食べていけなかった毒が、食べられる解となり得る。結果的に生物は生き続ける。この限りで、生きることは志向的である。 現象論的計算は、必然性という媒介者を不完全な探索によって構成し、計算を判別する可能世界外部に言及する。だから、その計算は、以前にエラーだったものが、解空間自体の変質によって、新たな解空間内に捉えることを可能とする。このとき我々は、新しい発想を得たと思うであろう。現象論的計算は、解空間を絶えず変質させて計算するが故に、そして志向的であるがゆえに、エラーを解とするべく計算する、つまり発想を計算する、計算過程なのである。」(郡司ペギオ=幸夫 『生命理論』[第2部 私の意識とは何か IV 結論:潜在性と意識 現在と計算] より) 微かな気配で満たされてしまうので言葉も視線も逸らしているがいつの間にかそばにいる。不覚。