メモ(『エチカ』第五部より)

第五部 知性の能力或は人間の自由について


定理三 受働なる感情は、我々がそれについて明瞭判然たる観念を形成するや否や受働たることを止める。
証明 受働なる感情は混乱せる観念である。故にもし我々がその感情について明瞭判然たる観念を形成するならば、この観念と、精神のみに関係する限りに於ての感情そのものとの間には、ただ見方の相違以外のいかなる相違もないであろう。従って感情は受働たることを止めるであろう。Q・E・D・
系 故に我々が感情をよりよく認識するに従って感情はそれだけ多く我々の力の中に在り、又精神は感情から働きを受けることがそれだけ少なくなる。


定理四 我々が何らかの明瞭判然たる概念を形成し得ないような如何なる身体的変状も存しない。
証明 すべての物に共通したものは妥当にしか考えられ(概念され)得ない。従って我々が何らかの明瞭判然たる概念を形成し得ないような如何なる身体的変状も存しない。Q・E・D・
系 この帰結として、我々が何らかの明瞭判然たる概念を形成し得ないような如何なる感情も存しないことになる。何故なら、感情は身体の変状の観念であり、従ってその中には何らかの明瞭判然たる概念が包含されていなければならぬからである。


定理六 精神はすべての物を必然的として認識する限り、感情に対してより大なる能力を有し、或は感情から働きを受けることがより少ない。
証明 精神はすべてのものが必然的であること、又原因の無限なる連結によって存在及び作用へ決定されることを認識する。従ってそのことによって精神は、そうした物から生ずる感情から働きを受けることがより少ないように、又そうした物に対して刺激を感ずることがより少ないようにすることができる。Q・E・D・
備考 物が必然的であるというこの認識が我々のより判然と又より生き生きと表象する個物の上により多く及ぶに従って感情に対する精神のこの能力はそれだけ大である。このことは経験によって実証される。何故なら、失われた善に対する悲しみは、その善を失った人間が如何なる仕方でもその善を保持することが出来なかったと考える場合直ちに軽減されるのを我々は知っているからである。・・・
スピノザ『エチカ』畠中尚志訳より)