メモ(『エチカ』第三部より)

第三部 感情の起源及び本性について


序言  
感情並びに人間の生活法について記述した大抵の人々は、共通な自然の法則物について論じているのではなくて、自然の外にある物について論じているように見える。・・・彼らは、人間の無能力及び無常の原因を、共通な自然力には帰しないで、人間本性の欠陥に帰している。だから彼らは、こうした人間本性を泣き・笑い・侮蔑し・或は呪詛する。・・・これらの人々にとっては、私が人間の欠陥や愚行を幾何学的方法で取り扱おうと企てること、又理性に反した空虚な・不条理な・厭うべきものとして彼らの罵る事柄を厳密な推論で説明しようと欲することは、疑いもなく奇異に思えるであろう。・・・自然の中には自然の過誤のせいにされ得るようないかなる事も起こらない。・・・万物が生起して一の形相から他の形相へ変化する所以の自然の法則及び規則は至るところ常に同一であるからである。・・・従ってすべての事物の本性を認識する様式もやはり同一でなければならぬ。即ちそれは自然の普遍的な法則及び規則によっての認識でなければならぬ。このようなわけで憎しみ・怒り・嫉妬等の感情も、それ自体で考察すれば、その他の個物と同様に自然の必然性と力から生ずるのである。従ってそれらの感情は、それが認識さるべき一定の原因を持ち、又他の事物の諸特質と等しく我々の認識に値する一定の特質を有しているのである。


定理四 如何なる物も、外部の原因によってでなくては滅ぼされることが出来ない。
証明 この定理はそれ自体で明白である。何故なら、各々の物の定義はその物の本質を肯定するが否定しない。或はその物の本質を定立するが除去しない。だから我々が単に物自身だけを眼中に置いて外部の諸原因を眼中に置かない間は、その物の中にそれを滅ぼし得るような如何なるものをも我々は見出し得ないであろう。Q・E・D・


定理十 我々の身体の存在を排除する観念は我々の精神の中に存することが出来ない。むしろそうした観念は我々の精神と反対するものである。
証明 すべて我々の身体を滅ぼし得るものは身体の中に存在することが出来ない。・・・精神の本質を構成する最初のものは現実に存在する身体の観念であるから、我々の精神の最初にして最主要なるものは、我々の身体の存在を肯定する努力である。従って我々の身体の存在を否定する観念は我々の精神と反対する。


定理十三 精神は身体の活動能力を減少し或は阻害するものを表象する場合、そうした物の存在を排除する事物を出来るだけ想起しようと努める。
証明 精神がそうしたものを表象する間は精神並びに身体の能力は減少し或は阻害される。それにも拘らず精神はそうしたものの現在的存在を排除するところの他の物を表象するようになるまではそうしたものを表象するであろう。
系 この帰結として精神は自己の能力並びに身体の能力を減少し或は阻害するものを表象することを厭うということになる。
備考 これらのことによって我々は愛及び憎しみの何たるかを明瞭に理解する。即ち愛とは外部の原因の観念を伴える喜びにほかならないし、また憎しみとは外部の原因の観念を伴える悲しみにほかならない。尚又、愛する者は必然的に、その愛する対象を現実に所有し且つ維持しようと努め、これに反して憎む者はその憎む対象を遠ざけ且つ滅ぼそうと努めることを我々は知る。・・・


定理十四 もし精神がかつて同時に二つの感情に刺激されたとしたら、精神は後でその中の一つに刺激される場合、他の一つにも刺激されるであろう。
証明 もし人間身体がかつて同時に二つの物体から刺激されたとしたら、精神は後でその中の一つを表象する場合、直ちに他の一つをも想起するであろう。然るに精神の表象は、外部の物体の本性をよりも我々の身体の感情をより多く示している。故にもし身体、従ってまた精神はかつて二つの感情に刺激されたとしたら後でその中の一つに刺激される場合他の一つにも刺激されるであろう。Q・E・D・


定理十八 人間は過去或は未来の物の表象像によって、現在の物の表象像によると同様の喜び及び悲しみの感情に刺激される。
証明 人間は或物の表象像に刺激される間は、たとえその物が存在していなくとも、それを現在するものとして観想するであろう。そしてその物の表象像が過去或は未来の時間の表象像と結合する限りに於てでなくてはそれを過去或は未来のものとして表象しない。だから物の表象像は、単にそれ自体に於て見れば、それが未来乃至過去の時間に関係したものであろうと現在に関係したものであろうと同じである。
スピノザ『エチカ』畠中尚志訳より)